第6編
生ビールを基本に—黒ラベル1977 - 1988年
熱処理から生へ—
『サッポロびん生』がもたらす市場変化
いまでは日本のビールのほとんどが生ビールですが、1970年代まではびんや缶のビールは熱処理ビールが主役でした。当社では、「ビール本来の美味しさは生にある」という考えから、1957(昭和32)年以降、びん詰めした生ビールの商品開発に取り組んできました。1957年7月に、当社は『サッポロ壜生ビール』を東京、横浜、名古屋、福岡など都市部を中心に限定発売しました。この商品は、びんにラベルの図柄を直接プリントした素朴なデザインでした。翌年、北海道で発売された際にはたいへん好評を博しました。北海道を旅行して、『サッポロ壜生ビール』を味わった方々から「サッポロのあの生ビールが飲みたい、どうすれば手に入るか」との問い合わせが札幌支店や工場に多数寄せられました。この生ビールが1977年発売の『サッポロびん生』につながっていくのです。
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1957年の『サッポロ壜生ビール』のポスター
生ビールのびん詰めで成功の鍵を握っていたのは、役割の終ったビール中の酵母を完全に取り除くろ過技術でした。技術陣は独自に開発したセラミックフィルターを使用したセラミックろ過システムで、生ビールの美味しさをそのままびん詰めすることに成功。
こうして誕生したのが、1977年に全国発売された『サッポロびん生』です。『サッポロ生ビール黒ラベル』の歴史はここから始まります。当時、黒いラベルが印象的だったことから「黒ラベル」の愛称で広まりました。
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1977年の『サッポロびん生』のポスター -

サッポロビールが独自に開発したセラミックフィルター
ワイン事業への参入
ビール事業を核としながら、新たな事業領域への進出も進められました。1970年代当時、日本のワイン市場はまだ小規模ながら、欧米との消費量の差から大きな成長が期待されていました。
当社は1974年にワイン事業への参入を正式に決定し、1977年1月には、買収した丸勝葡萄酒株式会社の社名を「サッポロワイン株式会社」へ変更。同年5月、最初の自社ブランドとしてサッポロワイン『ポレール』を発売しました。このワインは、ビール醸造で培った温度管理技術を応用し、低温発酵・低温貯蔵・低温びん詰を行う「クールドワイナリーシステム」によって醸造。ワインの酸化を防ぎ、香気成分の揮散を抑制できるなどの長所があり、商品の高品質を保証するものでした。
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サッポロワイン『ポレール』
ビール大麦新品種「はるな二条」の誕生
ビールの品質を支える原料開発において重要な成果が生まれます。1978年、長年の育種研究を経て、高品質で早生(わせ)のビール大麦の新品種「はるな二条」を育成。この品種は、国内外で高く評価され、ビール大麦育種の母本としても重用されることになりました。その後も「つゆしらず」(1984年)や「とね二条」(1989年)といった優良品種を次々と育成し、ビール品質の根幹を支える原料基盤を強化していきました。
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ビール大麦「はるな二条」
海外市場での躍進
国内での生ビール路線が軌道に乗ると、海外、特にアメリカ市場への展開が本格化します。1980年、アメリカ市場に『サッポロびん生』の大びん(633ml)を本格的に投入。当時アメリカで流通する輸入ビールの主流は12オンス(355ml)サイズであり、大容量のびんは珍しい存在でした。事前の市場調査では芳しくない結果でしたが、そのユニークさに成功の可能性を見出し、発売に踏み切ります。
この判断は功を奏し、現地の日本食ブームとも相まって、特徴ある容器と味わいが消費者に受け入れられ、販売数量を大きく伸ばしました。この成功を足掛かりに、1984年7月には現地法人「米国サッポロ株式会社(SAPPORO U.S.A., INC.)」を設立し、販売網を全米へと拡大。その年に発売した『サッポロカップ生』のヒットにも支えられ、1985年には日本のビールメーカーとして対米輸出シェア第1位を獲得するに至りました。
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『サッポロカップ生』(650ml缶) -

1986年の『サッポロびん生』のポスター
国内市場での新戦略
国内市場では、消費者の多様化するニーズに応える新たな戦略を打ち出しました。1985年6月、北海道地域限定として麦芽100%生ビール『サッポロクラシック』を発売。北海道の気候や食文化に合わせて開発された、やや苦味のきいた味わいが特徴です。特定の地域に向けて開発されたこの商品は成功を収め、地域限定商品という新たなカテゴリーを確立しました。
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『サッポロクラシック』
(500ml缶、350ml缶)
1988年10月には、日本初となる冬季限定ビール『サッポロ冬物語』を発売。これは「冬には冬にふさわしいビールを」というコンセプトのもと、アルコール分を約5.5%とやや高めに設定した商品で、商品名はシェークスピアの戯曲から引用されました。この商品も、季節限定ビールという新しいジャンルを切り開きました。
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『サッポロ冬物語』のポスター
札幌と恵比寿が引き継ぐ創造の原点
事業の成長とともに、企業文化の継承と生産体制の再編が進められました。1987年、札幌の地に日本で唯一のビールに関する博物館として「サッポロビール博物館」を開館。この施設は、1890年に建設された旧札幌製糖会社の煉瓦造建物を保存・活用したもので、北海道遺産にも認定されている歴史的価値の高い構造物です。日本のビール産業の歩みを伝える貴重な場として、今では企業の歴史と地域文化の融合を象徴する存在となっています。
一方、1889年に誕生した恵比寿工場は、時代とともに成長を遂げてきましたが、周辺の都市化が進み、拡張の余地がなくなったことで、約100年の歴史に幕を下ろしました。同工場の生産機能は、1988年に竣工した最新鋭の千葉工場(千葉県船橋市)へと移管されています。札幌と恵比寿、その記憶は、当社の使命として未来に向けて形を変えながら生き続けています。
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サッポロビール博物館
第7編
複合経営へ—サッポロ新時代1989 - 1995年
お客様が名付け親「黒ラベル」
当社は1977(昭和52)年に「びん生」を発売し、生ビール市場を開拓してきましたが、1988年にビール業界で「ドライ戦争」が起きると市場は一変しました。各社からドライタイプの生ビールが発売され注目を集める中、「びん生」(缶は「缶生」)の存在感は薄れていきました。
そこで、当社は1989年2月、名称やラベルだけでなく中味も一新し『サッポロドラフト』を発売します。広告にはミュージシャンの坂本龍一を起用し、若者層への浸透を図りました。しかし、このリニューアルに想定外の反応がありました。「びん生アンコール発売」の要望が多数寄せられるようになったのです。特に40〜50代のお客様から「びん生」復活を望む声が高まりました。当社はその声に応え、わずか半年後の9月に復活させることを決断。その際、名称は「びん生」ではなく、お客様から長年愛称として呼ばれていた「黒ラベル」を正式名称に採用し『サッポロ〈生〉黒ラベル』としました。
再登場した「黒ラベル」は好意的に迎えられ、急速に当社の基幹商品の座を取り戻していきます。販売量は着実に増加し、当社のビール事業に再び活力をもたらし、ブランド価値を再認識する契機となりました。現在、「黒ラベル」は当社のビール事業を力強く牽引する存在となっています。
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『サッポロ〈生〉黒ラベル』のポスター
ビールを基軸とする
複合経営のへの挑戦
当社の売上構成は90%以上がビール事業によるものであり、複合経営の重要性を強く認識していました。飲料・食品、不動産、ワイン・洋酒など様々な分野に展開していましたが、ビール事業に並ぶ第2の柱の確立を目指す方針を打ち出します。
その突破口として構想されたのが、「小さな都市」づくりです。当社の「複合経営」ビジョンを具現化する第一歩であり、「ビールを基軸とする複合経営の推進」という基本方針に則り都市開発プロジェクトが動き出しました。この核になったのが、「札幌工場(北海道札幌市)」と「恵比寿工場(東京都渋谷区)」の跡地開発でした。
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1985年ごろの「恵比寿工場」
札幌の地に新たな賑わいを
札幌工場には第1製造所と第2製造所がありました。特に第1製造所は1876年に開拓使麦酒醸造所として開業以来、日本最古のビール工場として製造を続けてきましたが、設備の老朽化と周辺の都市化を受けて存続を断念し、恵庭市への新工場移転を決定。1989年にサッポロビール北海道工場(恵庭市)が竣工しました。
それに伴い、札幌工場第1製造所の跡地開発は、市民の皆様に新しい生活文化を提案する複合都市再開発事業として計画され、1993年4月9日に「サッポロファクトリー(札幌市東区)」に生まれ変わりました。約4万1,200m²の跡地に、床面積約12万2,500m²の複合商業施設が整備され、商業、飲食、アミューズメント、ホテル、劇場などが一体となった、札幌初の画期的な施設が誕生しました。コンセプトは「北の・あたらしい・くらし」とし、開拓使麦酒醸造所の想いを引き継ぐ赤レンガと煙突を保存しながら、創成川東地区を活性化する街づくりを目指しました。
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「サッポロファクトリー」のアトリウム公園
10年を超えた構想を経て誕生した
「恵比寿ガーデンプレイス」
「ビールを基軸とする複合経営の推進」のもう一つの核である「恵比寿工場」は、1889年に竣工し拡張を重ねてきましたが、都心の過密地帯に位置していたことに加え、設備の老朽化や急速に変化する物流事情などが重なり、ビール需要増に応じるための増設には限界がありました。
この動きと並行して、東京都も1983年から、JR山手線恵比寿駅から目黒駅にわたるおよそ110万㎡の地域の調査を行い、翌年「恵比寿地区整備計画基礎調査報告書」をまとめていました。これをもとにこの地域の再開発には「特定住宅市街地総合整備促進事業」が適用されることになります。地域の再開発計画への対応と将来の事業展開を見据え、恵比寿工場は約100年にわたる役目を終えることとなり、新しい工場として千葉県船橋市へ移転することが決定しました。
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1988年竣工の「千葉工場」
跡地には、「水と緑の山の手情報文化都市」構想を掲げ、約6割をオープンスペースとしたゆとりある環境の中に、住宅、ホテル、商業・飲食・文化施設を配置した「恵比寿ガーデンプレイス」が誕生します。複合都市のパイオニアとして1994年10月8日に開業。グランドオープン初日には約15万人が訪れるなど、社会現象ともいえるほどの注目を集め、当社が目指す複合経営の大きな柱が確固たるものとなりました。「恵比寿」のまちの名前の由来となった「ヱビスビール醸造場」の跡地は、構想から10数年を経て「恵比寿ガーデンプレイス」として生まれ変わり、周辺地区をも洗練されたイメージに育み続けました。今では「住みたい街ランキング」でも常に上位にランクインするほど人気の街になりました。
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空から見た「恵比寿ガーデンプレイス」
