1890年 恵比寿ビールの誕生

日本麦酒醸造会社の設立

日本麦酒醸造会社の役員上任届(東京都公文書館所蔵)
日本麦酒醸造会社の役員上任届
(東京都公文書館所蔵)

ビール事業の将来性に着目した東京や横浜の中小資本家が集まり、日本一のビール会社を目指して、1887(明治20)年9月、「日本麦酒醸造会社」は設立されました(資本金15万円、社長鎌田増蔵)。しかしながら、設立発起人の中に、資力と名声を兼ね備えた一流の資本家や実業家が参加しておらず、出資者を勧誘する力はありませんでした。1889年4月の株主名簿には、株主に三井物産会社の幹部らが登場します。こうした安定株主を得られたことで、日本麦酒醸造の経営がようやく安定したのです。

ヱビスビール醸造場竣工

竣工当初の「ヱビスビール醸造場」
竣工当初の「ヱビスビール醸造場」

会社設立から2年が経過した1889(明治22)年10月、現在の東京・目黒区三田にヱビスビール醸造場が完成。当時、醸造場周辺は畑や山林の広がる民家もまばらな土地でした。突如として出現したレンガ造り3階建の近代建築は、人々の目を見張らせたことでしょう。ビールの仕込釜、蒸気機関、製氷機などの醸造設備はすべてドイツ製を購入。醸造技師もドイツから招き入れ、すべてが整った同年12月からビール醸造を開始しました。

大黒様から恵比寿様へ

発売当初の「恵比寿ビール」のラベル
発売当初の「恵比寿ビール」のラベル

1890(明治23)年2月、恵比寿ビールは発売されました。日本麦酒醸造会社は同年4月に開催予定の第3回内国勧業博覧会に「大黒ビール」というブランド名で出品しようとしていました。しかし大黒ブランドは既に商標登録されていたことから、同じ七福神の一神として福徳を授ける「恵比寿」に変更したのです。なお、この内国博で恵比寿ビールは札幌ビールとともに3等有功賞を受賞。審査報告では、恵比寿ビールが麒麟ビールと並んで品質「最良好」と絶賛されていました。

恵比寿の偽物出回る

1893年の社名変更後のラベル
1893年の社名変更後のラベル
1894年発売の「恵比寿黒ビール」のラベル
1894年発売の「恵比寿黒ビール」のラベル

1890年代ごろ、日本各地に小規模なビール醸造所が誕生。その数は100とも150ともいわれるほどです。しかし品質が悪かったのか、ほとんどの醸造所は僅か数年で姿を消してしまいます。恵比寿ビールはこうした泡沫ビールと一線を画し、輸入ビールの販売に大きな影響を与えている、と新聞が報じるような高品質でした。恵比寿ビールの知名度が高まるにつれて、偽物の恵比寿が出回るようになりました。特に1897(明治30)年からの数年間、偽恵比寿の数が増えつづけ、日本麦酒は商標侵害に係わる訴訟を何度となく行います。それだけ恵比寿ビールの人気が高かったという証拠といえます。