ロンドンで抱いた夢が

東京で叶い始めた記念日

ブロードキャスター
ピーター・バラカン

急遽来ることになったけど
47年経ってもまだいます

広大な葡萄畑から生まれた繊細でエレガントな独自のスタイルと、安定した高い品質の味わいで長きにわたって世界中で愛され続けるテタンジェ。大手シャンパーニュ・メゾンとしては希少な家族経営を貫くこの本物のシャンパーニュを楽しむために、上質を知る文化人が、テタンジェで乾杯したい自分だけの記念日を語る本連載。第2回目は、類稀なる音楽の知識を持ち、ブロードキャスター、DJとして活躍するピーター・バラカン氏の登場。本場フランスでは、「日常を少しだけ素敵にしてくれる=毎日を記念日にしてくれるお酒」として、さまざまな場面で愛されるシャンパーニュを、どんな日に楽しみたいか聞いてきました。

―バラカンさんは、2017年に上野の国立博物館で行われたテタンジェのイベントに参加されていたんですよね?
覚えています!国立博物館で沖野修也さんがDJして。大変楽しい一晩でした。季節的にもすごい気持ちよかったですね。
―そんなテタンジェで乾杯したいバラカンさんだけの記念日を教えてください
―そんなテタンジェで乾杯したいバラカンさんだけの記念日を教えてください
初めて日本に来た1974年の7月1日です。僕の人生が決定的に変わった日ですから。日本に着いたその日は、まだ23の誕生日も迎えていない若者でした。ロンドンの大学を卒業してから1年間レコード店で働いていたんですが、労働時間も長いし、給料も安いし、限界を感じ、日本のシンコーミュージックの面接を受けたんです。大学で日本語学科を卒業していたとはいえ、その時には日本がどんな国かもわかってないし、長く住むかも決めてなかった。それが合格して突然「10日後に来られないか」と電話をもらって、急遽来ることになっちゃった。結果的に47年経ってもまだいます(笑)。昔からの「放送の仕事をやりたい」という夢も実現できて、恵まれた人生を送れていると思いますね。
―当時の職場がこの神田淡路町界隈だったんですね?
そうです。オフィスが淡路町の交差点にあって、70年代は毎日この界隈にいました。到着した日も羽田空港から直行して、午前中にオフィスに着いたんですよ。少し挨拶した後、お昼ご飯に誘われて行ったのが「まつや」というお蕎麦屋さんでした。思い出深いです。神田淡路町では、「Cafe, Dining & Bar 104.5」というお店も好きです。来日当時はなかったんですけど、ブルーノート系列のお店で、都心なのにとても落ち着く洒落た感じの雰囲気だし。周りを歩いたら、当時を思い出しますね。淡路町の駅を降りるたびに「懐かしい」と思いますよ。
―シンコーミュージックでの仕事はどんなものでしたか?
音楽・楽曲の著作権に関係した仕事がメインでした。海外の音楽出版社との手紙のやり取りが多かったです。音楽雑誌の海外ミュージシャンの取材について行って通訳をやったりもしていいました。最初の一年はすべてが新しくて、冒険続きで楽しかったですね。

取材について行って通訳をやったりもしていいました。最初の一年はすべてが新しくて、冒険続きで楽しかったですね。

―放送の仕事はどのようにスタートしたのでしょうか?
音楽業界で働いていると、レコード会社や音楽関係の人たちと知り合う機会も多くて、彼らとよく飲みに行っていたんです。仲間の1人がラジオ番組の構成作家をしていたんですが、「新番組を作るんだけど、オーディションに来ない?」と誘ってくれて、1980年からラジオに出演することになりました。それが僕の初のレギュラー番組です。その番組をやっている最中に、僕は最初の会社を辞め、YMOが所属していた事務所に入ったんですが、今度は矢野顕子のラジオ番組に共演してほしいと言われて。ラジオが大好きなのですぐ引き受けました。それが「スタジオ・テクノポリス27」という深夜番組です。聴いている人は少なかったと思うけど、時々ちょっと型破りなことをやっていたから、面白いと思われたみたいです。それをきっかけにテレビ局にも声をかけられて、84年の春から「ポッパーズMTV」という番組にも出演するようになりました。それでまた僕の人生が決定的に変わりましたね。テレビに出た途端に顔も知られて、様々な仕事の依頼が次々と来るようになった。全てはアッコちゃんとの深夜番組からですね。
―日本に住み続けようと決めたのは、いつでしょう?
最初の会社を辞めた時点で、ロンドンに戻ろうと思えば戻れたけど、仕事も楽しかったし、そういう考えはなかったですね。ちょっと悩んだのは子供が生まれてから。日本の教育制度では個性が育まれないと感じていたので、僕はロンドンで育った人間として、日本の学校には入れたくないと考えていたんです。そこでふと「日本の教育制度を否定する僕はこの国に本当にいるべきなのか」とちょっと悩んだんです。でも日本を全部否定するわけではないし、ラジオの仕事も自由にできるようになってきた時期だったので、それを犠牲にしてイギリスに帰って、自分の仕事がうまくいかなくなったら、家族のためにも絶対に良くない。それで自分の仕事を優先しようと決意しました。幸いインターナショナル・スクールに通わせることができたので教育問題も解決して。それ以外は大きく悩んだことはないですね。

感じていたので、僕はロンドンで育った人間として、日本の学校には入れたくないと考えていたんです。そこでふと「日本の教育制度を否定する僕はこの国に本当にいるべきなのか」とちょっと悩んだんです。でも日本を全部否定するわけではないし、ラジオの仕事も自由にできるようになってきた時期だったので、それを犠牲にしてイギリスに帰って、自分の仕事がうまくいかなくなったら、家族のためにも絶対に良くない。それで自分の仕事を優先しようと決意しました。幸いインターナショナル・スクールに通わせることができたので教育問題も解決して。それ以外は大きく悩んだことはないですね。

―そもそも音楽の仕事をしたいと思ったのはいつ頃ですか?
子どもの時ですね。僕らの世代はみんなビートルズとともに育ったようなものです。ロンドンにいるわけですから尚更。その影響ったら大変なものでしたよ。63年から66年ぐらいまでは、世界で一番音楽が元気だった街がロンドンだったんじゃないかな、と思います。ミュージシャンになりたいとも思いましたが、才能がないことはわかっていたから、諦めました。でもとにかく音楽に携わる仕事以外は考えられないくらい好きだったんですよ。僕らの世代はヒッピー、カウンター・カルチャーの時代でしたし、普通のサラリーマンになるなんて全く視野に入れてなかった。そんな時にチャーリー・ギレットがやっていたBBCのラジオ番組に出会って。よくあるDJ然とした喋り方じゃなくて、ごくごく普通に友達に話すようにしゃべって、ヒット・チャートとは関係なく僕好みの本当にいい音楽を紹介する番組。それを聴くようになって「ラジオにこんな可能性があったのか」と夢が膨らんで、「一番やりたいのはこれだ」と思ったんです。21歳くらいの時ですね。
―その夢が東京で実現したわけですね。
そうです。初めて番組に出演したのは29歳でした。アッコちゃんとやっていた番組では基本的にディレクターと相談しながら3人で選曲していたし、それ以降の番組の選曲は全て自分でやっています。
―バラカンさんが選曲する音楽の基準はあるのでしょうか?
色々な音楽を聴くので、本当に難しいですが、僕は“本物”を嗅ぎ分ける本能みたいなものを、子どもの時から持っていたと思うんです。金儲けのために作られた音楽は、ラジオから流れてもクサい匂いがしていた。“本物”とは真剣に心を込めて作っている、ということだと思うんです。好きとは限らないけれど、本物だと思う音楽は世の中にたくさんあります。そんな音楽を選曲するようにしています。逆に見るからに、売れるために作られた音楽には嫌気が差す。そういうものも世の中にはたくさんあるんですよね。
―改めて、7月1日という記念日をテタンジェと共にどのように楽しみたいですか?
当時好きだった音楽を聴きながら妻と飲みたいです。妻は僕以上にシャンパン好きなんです。
―当時好きだった音楽とはどんな音楽でしょうか?
Little Featというロサンジェレスのちょっとファンキーなロック・バンドはすごく好きだった。Weather Reportというグループもジャズと他の要素を色々取り入れて面白くて好きだったし、Bob Marleyもよく聴いていました。そういえば、僕がシンコーミュージックのオフィスに初めて入った7月1日、僕の机に置かれていたのは、Phoebe Snowという女性ヴォーカリストのデビュー・アルバムでした。しかもその日が発売日だったんです。聴いてみたらものすごく良くて、愛聴盤になりましたね。当時を思い出しながら、また聴いてみようかな。
―その夢が東京で実現したわけですね。
そうです。初めて番組に出演したのは29歳でした。アッコちゃんとやっていた番組では基本的にディレクターと相談しながら3人で選曲していたし、それ以降の番組の選曲は全て自分でやっています。
―バラカンさんが選曲する音楽の基準はあるのでしょうか?
色々な音楽を聴くので、本当に難しいですが、僕は“本物”を嗅ぎ分ける本能みたいなものを、子どもの時から持っていたと思うんです。金儲けのために作られた音楽は、ラジオから流れてもクサい匂いがしていた。“本物”とは真剣に心を込めて作っている、ということだと思うんです。好きとは限らないけれど、本物だと思う音楽は世の中にたくさんあります。そんな音楽を選曲するようにしています。逆に見るからに、売れるために作られた音楽には嫌気が差す。そういうものも世の中にはたくさんあるんですよね。
―改めて、7月1日という記念日をテタンジェと共にどのように楽しみたいですか?
当時好きだった音楽を聴きながら妻と飲みたいです。妻は僕以上にシャンパン好きなんです。
―当時好きだった音楽とはどんな音楽でしょうか?
Little Featというロサンジェレスのちょっとファンキーなロック・バンドはすごく好きだった。Weather Reportというグループもジャズと他の要素を色々取り入れて面白くて好きだったし、Bob Marleyもよく聴いていました。そういえば、僕がシンコーミュージックのオフィスに初めて入った7月1日、僕の机に置かれていたのは、Phoebe Snowという女性ヴォーカリストのデビュー・アルバムでした。しかもその日が発売日だったんです。聴いてみたらものすごく良くて、愛聴盤になりましたね。当時を思い出しながら、また聴いてみようかな。

よく聴いていました。そういえば、僕がシンコーミュージックのオフィスに初めて入った7月1日、僕の机に置かれていたのは、Phoebe Snowという女性ヴォーカリストのデビュー・アルバムでした。しかもその日が発売日だったんです。聴いてみたらものすごく良くて、愛聴盤になりましたね。当時を思い出しながら、また聴いてみようかな。

ピーター・バラカン Peter Barakan
1951年ロンドン生まれ。ビートルズに多大なる影響を受ける。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院にて日本語を学んだのち、レコードショップの店長を経て、1974年来日。シンコーミュージック・エンタテイメントにて音楽出版の仕事に従事。1980年からはYMOの海外コーディネーションなどを担当したほか、膨大な音楽の知識を武器にさまざまなテレビ番組、ラジオ番組を制作し、自身も出演。今現在もさまざまなメディアで活躍中。