東京で生きてみようと

決めた記念日

スポーツジャーナリスト/プロデューサー
フローラン・ダバディ

いきなり日本に飛び込んで
人生が変わる瞬間でした

本場フランスでは、乾杯酒としてだけではなく、食中酒や葬儀の献盃酒としても愛されているシャンパーニュ。「日常を少しだけ素敵にしてくれる=毎日を記念日にしてくれるお酒」、それがシャンパーニュの本質なのです。大手シャンパーニュ・メゾンとしては希少な家族経営を貫く本物のシャンパーニュ、テタンジェを、本質で楽しむために。上質を知る大人に、テタンジェを楽しみたい自分だけの記念日を訊ねてみました。第一回目は、かつてサッカー日本代表の通訳を務め、今ではスポーツジャーナリスト・プロデューサーとして活躍するフローラン・ダバディ氏の登場。彼だけの記念日とはどんなものなのでしょうか?

―シャンパンは日常的に飲まれますか?
私たちフランス人は、記念日でなくても、なんでも理由にして、シャンパンを飲みます。シャンパンは普通のシチュエーションを超越できる魔法のようなツールだと思いますね。でも決して毎日飲むような日常的なものではないので、それに合う特別なシチュエーションや記念日を見つけるんですよね。年間20回くらいは開けたいです。フランスのホームパーティでも最初の一杯はシャンパン。それが礼儀です。

シャンパン出さないと、ちょっとケチかなって思われます(笑)。そういう文化が日本でも少しずつできてくるといいですね。オールマイティに気軽に海辺でも飲めるものだし。僕はソムリエじゃないけど、テタンジェはどんなシチュエーションでも美味しく飲みやすいと感じます。パワフルすぎない、モダンな感じですよね。

シャンパン出さないと、ちょっとケチかなって思われます(笑)。そういう文化が日本でも少しずつできてくるといいですね。オールマイティに気軽に海辺でも飲めるものだし。僕はソムリエじゃないけど、テタンジェはどんなシチュエーションでも美味しく飲みやすいと感じます。パワフルすぎない、モダンな感じですよね。

―そんなテタンジェを開けたいダバディさんだけの記念日とはどんな日でしょうか?
25年前の7月ですね。フランスの大学を卒業して、社会人として初めて東京で仕事した日です。僕は今46歳で、小学校から大学までパリのど真ん中にいたバリバリのパリっ子なのに、フランスで仕事をしたことがないんです。いきなり日本に飛び込んで、就職をするわけですから、人生が180度変わる瞬間でした。新しい国、新しい仕事、一人で住むのも初めてで、なんでもワクワクドキドキでした。キャリアの青写真もなくて、全てのスタートに対するいろんな不安ももちろん抱いていたけど、僕は旅が好きで異文化も好きだから、日本に対する好奇心、期待の方が優っていました。
―初めて住んだのがこの南阿佐ヶ谷なんですね?
はい、初めて住んだのがこの南阿佐ヶ谷です。一生懸命仕事をして、夜帰ってくる場所であり、週末の癒しの場所でした。当時はそんなに贅沢ができなかったので、散歩をしたり、テニスサークルに入って2時間ぐらいテニスをしたり、ラーメンを食べに行ったりしていました。この場所は私の東京の週末のスピリットを体現している空間であり、社会人として初めて過ごした時間を思い出す場所です。
―そもそも日本に興味を持ったのはなぜでしょう?
いろいろなきっかけがあったんですけれども、パリではよく日本映画祭をやっていたから、成瀬(巳喜男)、小津(安二郎)、黒澤(明)、大島渚たちのクラシックな映画はよく見ていました。あと母からもらった安藤忠雄の写真集で目にしたコンクリートの打ちっ放しの建物がすごく新しくて、日本の現代建築を好きになったんです。伊東豊雄さんとか磯崎新さんの建物も「すごいな」と思って見ていました。日本の漫画やアニメが流行したのは私よりも下の世代ですが、85年にフランスの映画館で『AKIRA』が上映されて、そういう近未来的な部分もすごく魅力として感じていましたね。
―実際に日本で仕事をしたいと思ったのはいつですか?
高校で唯一成績が良かったのが語学だったので、得意な語学を使える仕事をしたいと思っていたんです。「大学で昔から興味のあった日本語に挑戦したい」と言ったら、母が後押ししてくれて。94年にはホームステイで3週間日本にも来ました。その時の東京がすごく心地よかったので、大学を卒業したら、ここで仕事をしたいと思ったんです。パリに戻ってハースト婦人画報の日本支部の面接を受け、合格して日本にやってきたんです。千駄ヶ谷の編集部で「PREMIERE」という雑誌に携わって、アルバイト的な仕事をしていました。
―編集者だったんですね。ダバディさんは、サッカー日本代表のトルシエ監督の通訳を務められていましたが、通訳は副業だったんですか?
副業でした。アマチュアみたいでしたね(笑)。日本代表での初仕事は99年の3月、国立競技場のブラジル戦だったんですが、月曜日の夜にホテルに集合して、火曜日に練習をして、水曜日はもう試合。木曜日の朝には編集部に戻っていました(笑)。最初の2年間はピンポイントでの仕事でした。大会や遠征に同行するようになったのは、2000年のオリンピックくらいから。その時は出版社では「2~3週間休んでも大丈夫だよ」って言ってもらえていました。週末はJリーグの試合をトルシエさんと一緒に観に行ったりして、日本代表の仕事が自分のプライベートの時間になっていました。

99年の3月、国立競技場のブラジル戦だったんですが、月曜日の夜にホテルに集合して、火曜日に練習をして、水曜日はもう試合。木曜日の朝には編集部に戻っていました(笑)。最初の2年間はピンポイントでの仕事でした。大会や遠征に同行するようになったのは、2000年のオリンピックくらいから。その時は出版社では「2~3週間休んでも大丈夫だよ」って言ってもらえていました。週末はJリーグの試合をトルシエさんと一緒に観に行ったりして、日本代表の仕事が自分のプライベートの時間になっていました。

―2つの仕事を行うのは戸惑いもありました?
「大丈夫かな」とずっと考えていました。もし僕がフランス代表の通訳で、その傍ら雑誌でアルバイトをしていることを想像したら、ありえないと思ったんです。フランスではサッカーは国民的スポーツですから。でも当時の日本ではそんなシステムを誰も知らなかったんですよね。プロの栄養士もいなかったし、日本のサッカーがプロになって5年経っていましたけど、後進国でしたね。そこから著しく日本サッカーが進歩して10年で30年のギャップを埋めたと思う。トルシエさんも毎日怒っていたし、当時サッカー協会があった渋谷と、僕の編集部があった千駄ヶ谷ではもう毎日戦いでした。そんな中でこの南阿佐ヶ谷の非日常的な緑がある穏やかな空間には救われました。ここがなければ、ストレスで一年でパンクしていたと思う。
―南阿佐ヶ谷は日本のふるさとみたいな場所ですか?
そうですね。僕は部屋を探すときに一つだけ「ラテン人だから太陽が欲しい」と不動産屋さんにお願いしたんです。そうやって見つけた僕の小さいワンルームは5階にあって、南側には高層ビルもなく、美しい空があって新鮮だった。小さなバーを見つけて、友達もできたし、テニスサークルではみんなテニスオタクで、僕が代表の通訳をやっていてもどうでもいいみたいな感じで、質問もされなかったので、すごく気楽だった。ほんとにオアシスでしたね。北野武の『菊次郎の夏』の中に彼が描くチャリンコに乗って、ぼーっと野球場でタバコを吸っているような若者たちも近くの公園にいたので、僕の求めていたロマンチックな日本はここにあったとも思えたくらいです。

僕の小さいワンルームは5階にあって、南側には高層ビルもなく、美しい空があって新鮮だった。小さなバーを見つけて、友達もできたし、テニスサークルではみんなテニスオタクで、僕が代表の通訳をやっていてもどうでもいいみたいな感じで、質問もされなかったので、すごく気楽だった。ほんとにオアシスでしたね。北野武の『菊次郎の夏』の中に彼が描くチャリンコに乗って、ぼーっと野球場でタバコを吸っているような若者たちも近くの公園にいたので、僕の求めていたロマンチックな日本はここにあったとも思えたくらいです。

―東京でずっと仕事を続けたいと思っていたんですか?
来たばかりの頃は何年いられるか全くイメージできていませんでした。契約も一年更新でしたし。でも南阿佐ヶ谷がすごく居心地が良かったし、編集者の仕事を続けられたら嬉しいなと思っていました。ただ、フランスというバックグラウンドがなければ、日本でやっていけるかは微妙だと思っていたので、ラッキーだったら2、3年くらいの気持ちでした。サッカーの仕事に恵まれた時も、ワールドカップまでやるというイメージは全くなくて。もう本当にカルペ・ディエム(=「今この瞬間を楽しむ」という意味)で、長めの留学を楽しむくらいの気持ちでいました。すごくイノセントな日々だったから、未だに懐かしく思う。今の私の原点ではあることは間違いないですね。
―当時と現在で生活は変わりましたか?
実はライフスタイルはあまり変わってないんですよ。もちろん25年前に比べて僕の人生は豊かになったんですけど、自分の贅沢はなんなのか考えてみると、六本木ヒルズに住むことでも軽井沢に別荘を持つことでもなく、こんな東京の街中の公園でリフレッシュすることだったりするんです。そんな瞬間をテタンジェでちょっとだけ贅沢に彩りたいという気持ちですね。この街で体験した平和的な東京は、今でも僕の好きな東京です。

僕の小さいワンルームは5階にあって、南側には高層ビルもなく、美しい空があって新鮮だった。小さなバーを見つけて、友達もできたし、テニスサークルではみんなテニスオタクで、僕が代表の通訳をやっていてもどうでもいいみたいな感じで、質問もされなかったので、すごく気楽だった。ほんとにオアシスでしたね。北野武の『菊次郎の夏』の中に彼が描くチャリンコに乗って、ぼーっと野球場でタバコを吸っているような若者たちも近くの公園にいたので、僕の求めていたロマンチックな日本はここにあったとも思えたくらいです。

―東京でずっと仕事を続けたいと思っていたんですか?
来たばかりの頃は何年いられるか全くイメージできていませんでした。契約も一年更新でしたし。でも南阿佐ヶ谷がすごく居心地が良かったし、編集者の仕事を続けられたら嬉しいなと思っていました。ただ、フランスというバックグラウンドがなければ、日本でやっていけるかは微妙だと思っていたので、ラッキーだったら2、3年くらいの気持ちでした。サッカーの仕事に恵まれた時も、ワールドカップまでやるというイメージは全くなくて。もう本当にカルペ・ディエム(=「今この瞬間を楽しむ」という意味)で、長めの留学を楽しむくらいの気持ちでいました。すごくイノセントな日々だったから、未だに懐かしく思う。今の私の原点ではあることは間違いないですね。
―当時と現在で生活は変わりましたか?
実はライフスタイルはあまり変わってないんですよ。もちろん25年前に比べて僕の人生は豊かになったんですけど、自分の贅沢はなんなのか考えてみると、六本木ヒルズに住むことでも軽井沢に別荘を持つことでもなく、こんな東京の街中の公園でリフレッシュすることだったりするんです。そんな瞬間をテタンジェでちょっとだけ贅沢に彩りたいという気持ちですね。この街で体験した平和的な東京は、今でも僕の好きな東京です。

持つことでもなく、こんな東京の街中の公園でリフレッシュすることだったりするんです。そんな瞬間をテタンジェでちょっとだけ贅沢に彩りたいという気持ちですね。この街で体験した平和的な東京は、今でも僕の好きな東京です。

フローラン・ダバディ Florent Dabadie
1974年パリ生まれ。22歳までをパリで過ごした生粋のパリジャン。フランス国立東洋言語文化学院にて日本語を学び、1998年、映画雑誌『プレミア』の編集アシスタントとして来日。1999年~2002年にはサッカー日本代表監督、フィリップ・トルシエの通訳兼アシスタントを務め、2002年の日韓W杯でベスト16入りを支えた。その後はスポーツキャスター、ジャーナリストとして、様々なメディアで活躍。現在は作家としても活動している。