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FILE:09 1946年の年伝説 最後の希望「M2」の正体

誰よりもサッポロビールを愛しているあなた。
なによりもウワサが好きなあなた。
その中で、この文字の意味が瞬時に分かった人は、
どれぐらいいるだろうか?

そして、今回の年伝説を読むにあたって、
まずはこの文字を脳裏に焼きつけてほしい。

これは、絶望の境地に陥った人物たちを救った、

サッポロビールにまつわる
「救いの暗号」なのである

時は1945年。
この年、第二次世界大戦が終わりを迎えた。
しかし、戦争が終結するまでに、
日本の各地が大きな被害を受けたことは
いうまでもない。

そしてそれは、

当時の大日本麦酒
(サッポロビールの前身)の工場にも
大きな痛手を与えていた。

3月には「吾妻橋工場」と「名古屋工場」。
5月には「目黒工場」、7月には「川口工場」。

各工場が相次いで空襲の被害に遭い、
もはや満足にビール製造が
行える状態ではなかったという。

そして追い打ちをかけるように、
大日本麦酒のもとへ次なる知らせが飛び込んでくる。

「ビール配給停止」

戦争の最中、政府にビールの仕込みを停止され、
不要設備の取り壊しも命じられたのだ。

そしてこれだけでは終わらない。

なんと、「生産転換」つまり、

ビール以外のものの生産を
命じられたというのである。

戦時中の苦しい日々を生きながら、
さらにビール製造も禁じられた技術者たち。
その心境は、安易に想像できるものではない。

しかしこの後に、
大日本麦酒は「あるもの」に救われることとなるのである。

過酷な状況から彼らを救い出した、
その正体とはいったい何なのか?

決死の想いで辿り着いた安息の地なのか、
はたまた、まるで神のような力をもつ

目に見えない「なにか」なのか

あなたは、この真相がおわかりだろうか…?

真相-Truth-

1945年8月に第二次世界大戦が終戦を迎え、
後日、ついにある知らせが届いた。

そう、
ビール醸造継続が通知されたのだ。

そして翌年2月には大日本麦酒・目黒工場でも
ビール醸造が再開することとなった。

早速、他の工場からビール作りに必要な
酵母を取り寄せ、試醸が始まった。

しかしどうしたことか、
これが失敗に終わってしまう。

取り寄せた酵母と目黒工場の設備の
相性が悪かったのだ。

もはやこれまでか
しかしここで、
彼らは「あるもの」の存在に光を見出したのだ。

それは、

戦時中に一年間以上も
放置されていた、
目黒工場の酵母。

他の工場から酵母を取り寄せたものの、
実は、目黒工場にも酵母があったのだ。

しかし長期間に渡り放置されていたため、
誰もが酵母は死滅していると考えていたのであった。

技術者たちは藁にもすがる想いで
この酵母に最後の願いを込めた。
そして試醸が行われた

するとなんということだろう。
美味しいビールが完成したのだ。

つまり、この酵母は生きていたのだった。

「奇跡」だと喜びあう技術者たち。
そしてその酵母が入っていた培養缶には
このように書かれていた。

そう、「M2」と―

もうお分かりだろう。
「M2」の正体は「酵母」。
それも、

戦争を生き延びた、
「奇跡の酵母」なのである。

「酵母さえ生き延びれば、
ビール復活への望みがつながる」

一度はビールの製造を禁じられた彼らにとって、
このM2は最後の希望であり、
その想いが奇跡を起こしたのであった。

そしてこの奇跡の酵母M2から、
サッポロビールの様々な商品が生み出されることに
なるのであった…

いかがだっただろうか?

さらにM2の由来を探ると、
実はM2は、1935年に技術指導のために招聘された
ミュンヘン工科大学教授
「ハインリッヒ・リューエルス」博士から
贈られたものなのだとか。

ミュンヘン工科大学ビール醸造学部の原点は、
ドイツにおけるビール醸造の最高権威である
ヴァイエンシュテファンで、
その醸造所は
現存する世界最古のものと言われている。
M2は、そんな由緒あるところから
やってきた酵母なのだった。

そしてその奇跡の酵母は、
いまも多くの人々の
幸せにつながっているのであった…

海を渡り、
戦争を生き延びた奇跡の酵母。
あなたがいま飲んでいる
サッポロビールにも、
「M2」の魂が
息づいているのかもしれない…

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1946年の年伝説 最後の希望「M2」の正体
完-End-
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