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サッポロビール 箱根駅伝 応援サイト

 第94回 箱根駅伝 スタートまであと
2020年8月9日の東京五輪男子マラソンまで4年弱。
日本長距離界の不振を箱根駅伝出身者はいかに打破しようとしているのか。
彼らの挑戦を追う。

 箱根駅伝が始まってから100周年の2020年、東京に2度目の五輪がやってくる。ʼ08年の北京以降、五輪のマラソン日本代表は箱根駅伝出身者で占められているが、世界と戦えたランナーは、ʼ80年代にメジャーレースで15戦10勝した瀬古利彦(早大―エスビー食品)やʼ91年世界陸上東京大会で金メダルを獲得した谷口浩美(日体大―旭化成)まで遡らねばならない。

 どうしてだろう。

 ʼ90年代に入り、ケニア、エチオピアのアフリカ勢によって、世界のマラソンは高速化していった。時を同じくして、箱根駅伝からは「怪物」と呼ばれた渡辺康幸(早大―エスビー食品)を始め、1万mを27分台で走るスピードランナーが毎年のように生まれた。だが、その中でマラソンで成功した者は一人もいない。彼らは往々にして、短い距離のスピード練習は得意だが、長い距離を踏む練習が苦手だった。故障しがちで練習量が少なく、土台となるスタミナがないから、持ち前のスピードも活かせなかった。

 ただ、スピードランナーがマラソンを走れるようにならなければ、今の世界と戦えないのもまた事実である。

「僕たち兄弟は、マラソン代表として東京五輪で勝負したいと話しています」

 箱根駅伝の2区を沸かせた二卵性双生児の弟、村山紘太(城西大―旭化成)は開口一番、そう言い切った。入社1年目の昨年11月、高岡寿成(カネボウ)が保持していた1万mの日本記録を14年ぶりに更新した。6秒近くも短縮した27分29秒69は、高岡の記録がʼ87年の中山竹通(ダイエー)の記録を0.24秒上回っただけだったことを考えれば、28年ぶりの快挙とも言える。トラックで日本一を誇るスピードを、村山はどうマラソンに繋げようと考えているのか。

 「今はまだマラソンをやりません。日本では1、2番になれると思いますが、今やっても世界では勝負できない。根本的なトラックのスピードが足りないんです。アフリカ人は1万m26分台の選手がマラソンもやっている。やっぱり余裕度が違う。来年はトラックでスピードを磨いて、せめて27分台一ケタくらいの力をつけてから、マラソンにシフトしたい。来年の世界陸上にはトラックで出て勝負し、次のʼ18年はローカルな試合でもいいからマラソンを走って勝ち、翌年の世界陸上の選考レースに出て課題を見つける。ʼ19年は世界陸上と東京五輪の選考レースに出て、代表に。五輪本番までにマラソンを4、5本走るイメージです」

 4年後に向けたプランを語る口調は小気味よく、その表情は自信ありげにも見える。そこには、城西大時代の恩師、櫛部静二監督の教えがある。

 「長い距離走はやらないで、スピードを大事にしていこう、と。1万mで日本記録を出したときも、短い距離を繰り返す5000mに近い練習で結果に繋がった。その教えがあるから、まだスタミナ練習をやっていないのに、ここまで成長してきているんです」

 だが、次の発言を聞いたとき、少なからず疑問を持った。

 「高岡さんも、余裕度を高めるためにトラック中心にやったから、マラソンを始めるのが遅くなったんじゃないですか」

 ここには認識の誤りがある。高岡は箱根駅伝出身ではないが、ʼ90年代以降、スピードランナーでマラソンに成功したただ一人の選手だ。1万mで7位入賞したʼ00年のシドニー五輪までトラック中心に競技を行い、翌年31歳でマラソンに転向。ʼ02年シカゴで2時間06分16秒といまだ破られない日本記録を樹立する。だがそれは計画されたものではない。もともとマラソン志向の強かった高岡だが、40㎞を1本やっただけで食事が摂れなくなるほど体力がなく、ʼ96年のアトランタ五輪以降、こつこつと距離を踏む練習に明け暮れ、月間1000㎞を走れるようになってマラソンに転向した。トラックと並行して、5年もかけてスタミナを養成したからスピードを活かせたのだ。

 それを指摘すると、紘太は少し考えてから、堰を切ったように話した。

 「そう考えたら、マラソンは昔のように距離を踏むべき、というのもわかります。でもそれで、2時間07、08分、よくて日本記録じゃないですか。世界記録は2時間03分を切っている。世界と何が違うかといったらスピードしかない。まだマラソンをやったことがないから言えるんですけど……。でも、スピードランナーに合ったマラソン練習があると思うんです。そこを追求したい。誰も成功してないですけど、結果を出したらそれが正解になる。日本記録を出せば1億円が貰えることになってますけど(日本実業団陸上競技連合のプロジェクト)、僕はそこに目標を置きたくないんです」

 着ているTシャツの胸には、会社名のロゴの下にこんな言葉がプリントされている。「昨日まで世界になかったものを」。紘太の気持ちだけは「世界」にあるようだった。その根源にはこんな思いもある。

 「僕は子供の頃から何もできなかった。でも、走ることだけはできたんです。これで世界一になれたら凄いなって……」

 幼い頃から兄謙太の後塵を拝してきた。「謙太にできるなら自分にもできる」と言い聞かせて。共に旭化成に入社したその兄は、一足先に2月の東京マラソンを走った。序盤から日本人でただ一人、アフリカ人の先頭集団に食らいつくが、22㎞付近から脱落。1万mで日本歴代7位の記録を持つ謙太は駒大時代から紘太よりも距離を踏み、レースに向けては練習量こそ月間1000㎞に満たなかったが、40㎞走では2時間05分台で走るなど質の高い練習をこなした。だが、1週間前に右脛を疲労骨折した影響もあり失敗に終わった。それが紘太をスピード重視に向かわせる要因の一つにもなっている。当の謙太は悩みの渦中にいるようだ。

 「スピードを磨くのか距離を踏むのか、どっちが正解かは正直わかりません。ただ、スピードだけでマラソンは走れない。両方をいかに効率よく故障しないでやるか。今は中間のハーフマラソンで力をつけて、その余裕度をマラソンに繋げたいと考えています。来年はハーフ中心にやって日本記録を出して、再来年、もう一度東京マラソンで勝負したい。東京五輪までに早く正解を見つけたいです」

 2人とも来年はマラソンをやらず、紘太はトラックで、謙太はハーフで、スピード強化を模索していくという。だが、旭化成の宗猛総監督は、村山兄弟に手厳しい見方をする。

 「東京五輪で結果を出すという目標から逆算すれば、この冬にマラソンに挑戦しておかないといけない。ʼ19年のドーハの世界陸上は開催時期が遅く(9月末)東京五輪の選考レースにならない公算が高いので、世界を経験するには来年の世界陸上しかないんです。でも、そこに挑戦しないと言うのだから、彼らの考えは絵に描いた餅に終わる可能性が高い。よくても東京五輪は出るだけやね。

 1万mやハーフとマラソンのスピードは違います。速いペースで42.195㎞を維持するにはスタミナがなければ無理です。30㎞を世界記録や日本記録で走った選手でも、マラソンでは成功していない。残り12.195㎞が別物だからです。まず先にスタミナをつけることがマラソン練習の原点ですよ。それには相当な準備期間が必要ですが、彼らはその積み上げをしないで一気に行けると思っている」

 宗兄弟、瀬古、中山……かつて日本の最強時代を築いた面々は、年間を通してマラソン練習を行っていた。結果的に月間1000㎞から時には1200〜1400㎞という距離を踏むことになった。スピードに特化した練習はトラックシーズンくらいでも、1万mを27分台で走る選手は多かった。つまり、スピード持久力の向上がマラソンにもトラックにも活きていたのだ。

「村山兄弟だけでなく、今の日本には我々よりも素質のある選手は一杯いますよ。彼らがスタミナをつければ、1㎞2分57秒くらいのペースで押し切れる。すると2時間4分45秒くらいで走れます。まだ世界と戦えます。距離は月間1000㎞程度で十分ですが、3カ月くらいの間に40㎞走を7回から9回しっかり走れればいい。ただ残念ながら、素質のある選手に限って距離を踏まない。距離を踏むと故障するのも、故障しない脚作りを怠っているからです。また、故障を恐れていては本当に強くなれません。ただ、全ては本人次第。マラソンを真剣に捉えて挑戦する覚悟があるかどうかです」

効率のいい理想の走りを追求する服部勇馬の可能性

 「僕は距離を踏むのは苦手でも嫌いでもないです。もっと練習量を増やして、月間1000㎞は確実にこなせるようにしたい。ただ、それ以上となると、故障のリスクもあるし、もっと大事なことがある気がしているんです」

 東洋大のエースとして箱根駅伝の2区で2年連続区間賞を獲得した服部勇馬(トヨタ自動車)は、そう話す。

 初マラソンとなった2月の東京で、可能性の片鱗を見せた。序盤から5㎞のラップが16分台というスローペースの第2集団に属していたが、30㎞から35㎞までの5㎞を14分台にペースを上げ、実業団選手を置き去りにした。35㎞付近で先行していた村山謙太を抜き日本人トップに。リオ五輪代表は目前だった。だが37㎞を過ぎると徐々に脚が動かなくなり、最後は青学大の2人にも抜かれてしまう。

 「今まで経験したことのない、太ももの前側の筋肉が使えなくなる感じに、これはもうダメだ、と。後続が来ても全く反応できなかった。マラソンはこういう感覚になるのかと思いながら走ってました」

 なぜ、ラスト5㎞を押し切れなかったのか。レースに向けての練習量は月間800〜900㎞程度で、筋力とスタミナ不足は感じている。だが、練習量だけではないとも思っている。

 「効率のいい動き、体の使い方が最後までできていなかったんです。17㎞過ぎに足にマメを作ってしまったのも、前半のスローペースが想定外で自分に合っていなかったから。30㎞でペースアップしたときに、脚に相当な負担がかかっていたと思います。本当は前でレースを進めなければいけなかったのに、謙太さんが先頭集団に付いていったとき、ここから脚を使うのは怖いと思ってしまったのが一番の敗因です。ジョッグのような遅いペースでも、1㎞3分を切る速いペースでも、同じ走り方をしなくてはいけない。それが僕の理想のマラソンなんです」

 大学入学時は「箱根で優勝できればいい」と4年間で陸上をやめるつもりでいた。4人兄弟の長男で、卒業後は新潟の実家に帰り、父の営む会社を継ぐ予定だった。その服部がマラソンを志したのは大学2年の秋のことだ。1万mのタイムが上がり「実業団でやってみたい」と父に申し出ると、父は「もう帰ってこなくていい」と言った。それだけ本気でやりなさい、ということだ。

 「どうやって生きていけばいいのか、と考えたんです。単に実業団でやるだけでは意味がない。でも、突出したスピードがあるわけではないので、トラックでは勝負できない。それで、マラソンをやろう、マラソンで世界と勝負したい、と」

 服部の1万mのベストは大学4年の昨年に出した28分09秒02で、学生ではトップレベルだが村山兄弟にはやや劣る。それならマラソンをと目を向けたとき、福岡国際マラソンでペースメーカーを務めていたケニア人、ビダン・カロキ(DeNA)の走りに釘付けになった。

 「テレビではジョッグのように見えるのに、実際は1㎞3分を切って走っている。どうしてこんなに遅く見えるのに、こんなに速く走れるんだろう、と。30㎞までリズムもフォームも全く変わらなかったんです。ああ、これなんだなって。マラソンは42.195㎞をいかに効率のいい動きで走り通せるかなんだな、と。どうやったらそれができるのかを、ずっと考えています」

 大学時代から専属のPNFのトレーナーと共に、練習前の動きづくりに取り組んできた。トヨタ自動車に入社してからも、月に一度は愛知から東京に行き、理想の動きを追求している。

 「普段は全てを脱力して走るイメージを持っています。箱根の2区で、ラストの上り3㎞を除けば、脱力した走り方は掴めている。それを距離が倍になるマラソンにどうやって活かすかが一番のカギ。それができれば、2時間5分台も行けそうな気がします。1億円? 宝くじを当てるより確率は高いと思います」

 にこやかに笑うと、こう続けた。

 「宗さんや瀬古さんたちのような練習量はできないと思いますが、その人たち以上の結果を出すには、それ以上の取り組みをしなければいけない。別のアプローチで東京五輪の結果につなげたいです」

 来年の東京マラソンでは2時間07分台で世界陸上代表を目指し、秋には海外のレースで記録を狙い、翌ʼ18年に夏のマラソンを一度経験する。その年の世界陸上選考会に出て、ʼ19年の世界陸上、五輪選考レースへというプランを描く。

 スピード強化か、距離を踏むのか、効率のいい走りか。箱根駅伝でファンを魅了する走りを見せた彼らは、彼らなりにできることを考え、低迷が続く日本マラソンの現状を打破しようとしている。はたして「正解」は見つけられるのか。

 「本当に東京に来るので。オリンピックが……」

 服部が実感を込めて言ったことだけは、まぎれもない事実なのだ。

(スポーツ・グラフィック ナンバー 2016年12月15日発売号掲載)

村山紘太(むらやま こうた)
1993年2月23日宮城県生まれ。
箱根駅伝では城西大1年時に1区、2年時から2区を担当。
昨年、1万mの日本記録を14年ぶりに更新。リオ五輪5000m、1万mに出場。
旭化成所属。174㎝
服部勇馬(はっとり ゆうま)
1993年11月13日新潟県生まれ。
箱根駅伝では東洋大1年時に9区、2年時からは2区を担当し、
日本人選手として渡辺康幸以来の同区間2年連続区間賞を獲得した。
トヨタ自動車所属。176㎝