風味爽快ニシテ
新潟へ感謝の気持ちを込めてつくりました。
サッポロビールの生みの親、育ての親は、新潟県人だった。
中川清兵衛

サッポロビールの生みの親、それは新潟県与板町(現 長岡市)出身の中川清兵衛です。1848年、茶商の長男として生まれた清兵衛は、16歳の時に単身で横浜へ行き、ドイツ商館のボーイとなりました。

1872年(明治5年)、清兵衛は24歳でドイツへ渡ります。そこで大勢の日本人留学生の中から清兵衛をみいだし、ベルリンビール醸造会社で醸造技術を学べるよう援助したのは、後に外務大臣となる青木周蔵でした。こうして清兵衛は、全身全霊を打ち込んで修業時代を過ごすこととなりました。

ドイツの技術を日本へ

1875年(明治8年)、2年間の厳しい修業を終えた清兵衛は、修業証書を胸に日本へ帰国。サッポロビールの前身である、開拓使麦酒醸造所の主任技師として迎えられたのでした。知識と技術と情熱を総動員して挑むビール造りは、まさに清兵衛の夢そのものになっていきました。

1877年(明治10年)6月。ついに清兵衛は、開拓使麦酒醸造所で初めてのビールとなる、冷製「札幌ビール」を発売しました。清兵衛のビールは大評判で、専門家からも最大級の賛辞が贈られたといいます。清兵衛が造ったビールの当時の宣伝コピーが、「風味爽快ニシテ健胃ノ効アリ」。 「新潟限定ビイル 風味爽快ニシテ」は、この言葉から名付けました。

中川清兵衛が醸造したビールに
使用されたラベル。

中川清兵衛のベルリンビール醸造会社修
業証書。

大倉喜八郎

サッポロビールの育ての親、それは新潟県新発田市出身の大倉喜八郎です。1837年、農家に生まれ、江戸での奉公を経た1865年、鉄砲店を開店しました。この商売が当たり、1873年(明治6年)には、大倉組商会を設立。貿易にも進出し、時流に乗って大きな発展を遂げました。

1886年(明治19年)、北海道開拓使の開拓十年計画の終了に伴い、喜八郎は清兵衛たちが築いた北海道開拓使麦酒醸造所を受け継ぎ、大倉組札幌麦酒醸造所を設立します。
1888年(明治21年)、札幌麦酒株式会社として生まれ変わった後も委員となり、それまでに培ってきた経営手腕を発揮し、今日のサッポロビールへと育てたのでした。

清兵衛の成功を、さらに大きく

開拓使麦酒醸造所開業式

大倉組時代のサッポロビール商標

サッポロビールと新潟の今。そして、これから。

新潟県聖篭町には、かつてサッポロビールが新潟工場を作る計画で取得した土地があり、1997年よりサッポロビール園として使用していました。現在は、Jリーグアルビレックス新潟の練習場を兼ねた総合スポーツ施設「新潟聖籠スポーツセンターアルビレッジ」として、多くのサッカー関連者にご利用いただいています。

サッポロビールは2002年から、アルビレックス新潟のクラブスポンサーとして応援し続けています(現在はトレーニングウエアスポンサー)。

サッポロビールは「新潟ビイル風味爽快ニシテ」の売上金の一部を活用することで、新潟の自然や食文化などのさまざまな魅力を、県内外に伝えていきたいと考えています。