

大人になると、背中に哀愁が漂ってくるのは、背負った過去の重みのせいだ。忘れっぽくなるのは、少しでも身軽になりたいがためだ。もっとも、本当に忘れたいことは忘れられないものである。多くの失敗を重ね、多くの恥をかき、心は傷だらけだが、大人は静かに笑っていられる。苦い勝利や甘い敗北の味も知っている。怒りや悲しみとの戯れ方も知っているし、繊細な鈍感さや礼儀正しい図々しさもわきまえている。若さをさんざん楽しんだ挙句に、大人になったのだから、若さに嫉妬したりはしない。過去に未練もない。未来は忘れられた過去の反復だということを知っているから。

苦さの奥にある甘さを歯茎に感じながら、舌で切れ味を測りながら、鼻に突き抜ける香りを確かめ、のど越しの刺激に身を震わせつつ、ため息に含まれた残り香さえも味わい尽くす・・・・・・といった複雑なことを、ごくさりげなく、もったいつけずにやってのける。この境地に辿り着くまで、一体どれだけのビールを飲んだか知れない。
島田雅彦

- 1961年東京生まれ。1984年東京外国語大学ロシア語学科卒。在学中の1983年『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビュー。主な作品に『僕は模造人間』、『自由死刑』、『無限カノン』、『退廃姉妹』(伊藤整文学賞)、『徒然王子』、『悪貨』ほか多数。法政大学国際文化学部教授













