サッポロビール株式会社
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ホーム > お店とエリア > 北海道 > 浪漫邂逅-サッポロビールを創製した、男達の残響- > Chapter3

 植村澄三郎は甲府生まれですが、植村家は、8代将軍吉宗の時代に甲府城の守備などに当たる甲府勤番を命ぜられ、一家を挙げて江戸から甲府に移り住んだ家系です。甲府勤番は、ほとんど転任がないため江戸へは戻れず、その子孫も甲府勤番として勤めることが多かったことから、俗に山流しとも呼ばれていました。

 植村家が甲府を離れ、横須賀に転居したのは、植村が6歳だった明治元(1868)年。14歳で小学校を卒業すると、母校で代用教員として勤め、17歳の時に父の知人の推挙によって開拓使の東京出張所に勤務することになります。開拓使が廃止されると、北海道庁が置かれた明治19(1887)年、本庁勤務のために北海道へ。ところが、開拓使麦酒醸造所の払下げ評価額を算定する任務を終えるや、辞表を提出して東京へ戻ってしまいます。

 その後、植村は山形、東京での生活をへて、北海道炭鉱鉄道会社の経理支配人に着任します。同社の大口株主の中には、大倉組に払い下げられた麦酒醸造所を立て直すために誕生した札幌麦酒有限会社の会長・渋沢栄一もいました。渋沢は、多額の損失金を出してしまっていた札幌麦酒有限会社の建て直しに、開拓使の東京出張所時代から一目置いていた植村を経営陣として迎え入れたいと要請。植村は、開拓使麦酒醸造所以来、縁が深いこの会社への入社をすぐに受諾し、明治27(1874)年に専務取締役に就任します。

 当時は、輸入ビールは年々増加し、日本のビール産業も目覚しい発展を遂げていて、植村が着任した2カ月後に始まった日清戦争によって、ビール業界はさらに景気が上昇。終戦後も勢いに陰りは見えなかったことから、植村は設備投資に積極的に乗り出します。それと並行して、ビール原料の大麦やホップの道内生産に力を注ぎ、ガラスのビール瓶工場も建設。ビールづくりのすべてを北海道産で賄う策に出ました。さらに、今後の販路拡大は東京や横浜が中心であるだろうとの読みから、東京に分工場を建設することを決意。明治31(1898)年、原料搬入にも製品搬出にも便利な、隅田川沿いの吾妻橋の東側に東京分工場を着工します。

 同年、植村は、販売の指揮をとるために一家で札幌から東京へ転居。3年後の9月には東京産の冷製ビールの出荷が始まりました。大麦、ホップからビール瓶までが北海道からの持込で、香りも味も北海道産とまったく同じ。開拓使麦酒醸造所が誕生以来27年目にして、開拓使の宿願だった東京進出が果たされました。一方、植村にとっては、何代にもわたって甲府勤番として不遇の時代を過ごした植村家が、東京という故郷に錦を飾った証左に思えたことでしょう。

 明治39(1906)年、販売競争の激化では各社にメリットはないということで、サッポロ、アサヒ、ヱビスの合併話が浮上します。五稜の星のマークを掲げて、北海道から東京へ乗り込んできた植村は、一切耳を貸しませんでしたが、国が合併斡旋に乗り出してきたことから渋々認めざるをえなくなり、三社合併による大日本麦酒株式会社が設立。植村は常務に就任しました。

 三社合併の議定書には、その目的がこう書かれています。「過当競争を避けて輸出の増大を図り、大麦、ホップなどの原料や機械、材料の国産化を図るとともに、外国人の手を借りずに、日本人だけで麦酒を製造すること」。これは、開拓使麦酒醸造所から札幌麦酒有限会社に引き継がれてきた指針です。おそらく植村は、この文言のない合併であれば、その首を縦にはふらなかっただろうと、私は確信しています。



植村澄三郎小伝
(サッポロビール120年史より抜粋引用)

 植村澄三郎は、文久2(1862)年に甲府で生まれた。17歳のときに父の友人の世話で開拓使の等外3等出仕に採用され、東京出張所に勤務。薄給のため、生活は苦しかったが勉学を怠らず、経済学や英語を学んだ。

 開拓使が廃止されると、植村は大蔵省、農商務省、逓信省と転じ、その後、開拓使時代の上司の推挙で北海道炭礦鉄道の創立事務に従事。同社創立の祝宴の席で、初めて渋沢栄一の面識を得た。数多くの要職を兼ね、東京に在住していた渋沢は、現地で札幌麦酒の経営に専念できる人材が必要と考え、植村を専務に推した。

 明治39(1906)年3月の大日本麦酒への大合同まで、植村は札幌麦酒の実質的な社長として手腕を振るい、東京への工場進出、製造量で業界トップへの躍進など、渋沢の期待に応えた。この間、明治33(1900)年には欧米を視察し、化学工業の振興が急務であることを痛感。帰国後は化学工業の育成にも尽力し、30余の化学会社設立に中心的な役割を果たすなど、その功績は大きい。合同後は馬越社長につぐナンバー2として、昭和5(1930)年までの24年間も大企業経営の重責を担った。


サッポロファクトリー敷地内に
建立されている「植村澄三郎」像



札幌麦酒会社東京工場(明治33/1900年、東京・墨田区吾妻橋)


札幌麦酒会社製瓶所での手吹きによる製瓶作業(明治33/1900年)