サッポロビール株式会社
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ホーム > お店とエリア > 北海道 > 浪漫邂逅-サッポロビールを創製した、男達の残響- > Chapter2

 開拓使麦酒醸造所のビール醸造技師第1号である中川清兵衛が、ポールマンの冷たい仕打ちに我慢がならず、心血を注いだビール醸造の世界から潔く身を引いたのは、明治24(1891)年2月。当時44歳だった中川は、9月に妻と13歳の長女をはじめとする4人の子どもを連れ、小樽に移り住みます。

 中川がなぜ小樽を選んだかというと、妻の親戚に小樽でも有名な水産業者がいたからではないかと考えられます。そして、その人の口利きによるものだったのでしょう。中川は、開拓使麦酒醸造所を辞めたその年の9月に現在の色内町1丁目の小樽運河沿いに船宿を建てます。当時の新聞広告の宣伝文によると、中川旅館は船着場に近く、しかも、桟橋は旅館前にあるため、「ご乗船、ご上陸ともに至極ご都合よろしい」と、なかなか繁盛したようです。

 ところが、船宿を経営して中川が知ったのは、海上交通が不便な離島における港湾設備がいかに不備か、ということでした。とくに、樺太に近い利尻島などは、整備された港がないために海が荒れると定期船も近づけず、生活用品の補充にも事欠く状態でした。そうした島民の窮状を見かねた中川は、工事資金を安い金利で貸して、オシドマリ港の防波堤や船着場の整備を支援したのです。

 しかし、工事は難航続きで、2年後には100トン級の船が接岸できるようにはなったものの、工事費の大幅な膨張によって、提供した資金の配当金どころか、元金の返済も絶望的になったのです。このため、明治31(1898)年頃、中川は繁盛していた旅館を手放し、妻と二人だけで横浜へ引っ越すわけです。

 中川は大正5(1916)年、食道がんにより長男の家で亡くなり、末期の水は生前の希望通りサッポロビールで浸してもらったそうです。そんな彼が、醸造所を追われるように辞めた後、未知の商売に手を染めながら、小樽の海の向こうに何を見ていたのか。私は、やはり、ビールというものの存在があったのではないかと思います。当時、ビールというものは輸出品としても注目されていたことから、中川自身も海外を意識していたでしょうし、特にウラジオストックやサハリンあたりに関心があったとすれば、ビールを輸出する中継地である小樽に旅館を造るという発想は理解しやすいわけです。そうでなければ、まったく知らない所に行って、もともと技術者である人間が商売をやるでしょうか。

 中川清兵衛の人生はまさに波乱万丈でした。しかし、どのような境遇にあったときでも、ビール醸造技師としての誇りや志という一本の筋だけは通して、生きていこうとしていたのではないかと、私には思えます。



中川清兵衛小伝
(サッポロビール120年史より抜粋引用)

 中川清兵衛は嘉永元(1848)年、新潟県三島郡与板で、与板藩2万石の御用商人扇屋の分家・中川家の長男として生まれた。清兵衛は、17歳のときに郷里を離れて横浜へ行き、慶応元(1865)年4月に渡英。幕府が海外渡航を許可したのは慶応2(1866)年5月であったことから、中川は未成年でありながら自らの才覚で、幕府の厳しい禁を犯して単身イギリスへ渡ったことになる。

 イギリスからドイツへ移ったことが、青木周蔵との運命的な出会いを生み、青木の物心両面の支援によって、当時ベルリンでは最大のビール会社であったベルリンビール醸造会社で修業する機会を得た。同社は明治8(1875)年5月、中川の修業に対し社長、工場長、技師長連名の修業証書を与えた。証書は現在、サッポロビール博物館に保存されている。

 札幌では大きな木造洋式の官舎に住み、高給を支給され、名士の一人となった中川。ヨーロッパ生活が長かったため生活も西洋風で、毎年春には札幌の著名人を招待し、自邸の庭でビールを大盤振る舞いする園遊会を開いた。開拓使が廃止された明治15(1882)年から、農商務省所管の明治18(1885)年頃までが中川の絶頂期だった。


中川清兵衛自筆の履歴書

明治27年小樽港概図
(小樽博物館収蔵)より


明治24年9月3日付
北海道毎日新聞に掲載された
「中川旅館」の広告