サッポロビール株式会社
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ホーム > お店とエリア > 北海道 > 浪漫邂逅-サッポロビールを創製した、男達の残響- > Chapter1

 開拓使の要職に就き、日本にビール産業を興したキーマンでありながら、孤独な最期を迎えなければならなかった村橋久成。歴史に埋もれたこの功労者を彫刻で蘇らせた方が、村橋の出身地である鹿児島にいらっしゃいます。文化功労者、日本芸術院会員、日展常任理事であり鹿児島大学名誉教授でもある、彫刻家の中村晋也さんです。中村さんは、私の小説『残響』を読まれた後、1984年、高さ77cm・幅70cmの村橋の胸像を制作。光栄なことに、彫刻にも『残響』と名づけられました。

 胸像は、鹿児島県松元町にある中村晋也美術館に所蔵されていましたが、中村さんは「この胸像は村橋が活躍した札幌で、白樺の木の下に置いてほしい」とお考えでした。その願いを実現しようと何度か関係のところに働きかけましたが、力が及びませんでした。ところが2003年7月、高橋はるみ知事が村橋久成の功績を道議会で述べたのがきっかけで、彼の功績を語り継ぐために作られた北海道久成会のメンバーが中心になり「『残響』札幌建立期成会」を結成しました。期成会は募金活動で約700万円を集め、高橋知事にも熱心な働きかけを続けました。その結果、知事のご決断を得て、胸像制作から21年、運動開始から3年の歳月を費やして、2005年9月23日にこの胸像を知事公館前庭に建立することができました。知事公館敷地は村橋久成が製糸業のために作らせた桑園の跡地でもありますが、村橋が開拓使に辞表を出し、札幌から離れた日から1世紀以上を経て、村橋は輝くブロンズ像となって、故郷鹿児島から第2の故郷札幌へ戻ってきたのです。



 胸像の除幕式には、期成会のメンバーや高橋知事をはじめ、中村さん、鹿児島市長、そして、東京からは村橋の曾孫にあたる大山登規子さんもおみえになりました。今年9月23日には、建立1周年を記念して、「胸像を見守る会」、「北海道久成会」、「岩内サッポロビール会」のメンバーが知事公館の胸像前に集まり、祝いました。

 「産業とは人と社会を豊かにするためにあることを教えてくれた」、「仕事にまっすぐ情熱を傾けた村橋がいたからこそ、北海道の産業は始まった」など、村橋の功績に対する評価は高く、多様です。ただ、それ以前に、新旧の価値観が複雑に交差する混乱の時代においても、自分自身と自分の美学に忠実に生きた、その生き様への羨望あるいは尊敬の念というものが、多くの人の胸を打つのだと思います。どう生きるか、生きるべきかに迷ったとき、村橋の高潔な生き方がある種の道標のように見えるのかもしれません。



村橋久成小伝
(サッポロビール120年史より抜粋引用)

 村橋久成は天保11(1840)年、薩摩藩加治木島津家の分家に生まれ、将来は家老職を約束されていた。慶応元(1865)年、薩摩藩が森有礼ら15人を留学生としてイギリスへ派遣したとき、その一人に選ばれ、ロンドン大学に入学。翌年に帰国し、幕末維新の動乱期には官軍に参加した。

 明治4(1871)年11月、開拓使に10等出仕として採用され、七重村官園(現・七飯町)や、屯田兵のさきがけとなった琴似兵村(現・札幌市)の測量や境界、道路、家屋などの建設に当たった。村橋を今もサッポロビールに強く結びつけるのは、開拓使麦酒醸造所の建設を東京から札幌に変更させた功績によるものであろう。

 開拓使は明治15(1882)年に廃止が予定されていたが、その前年、黒田長官を辞任に追い込んだ「開拓使官有物払下げ事件」が起こる。村橋は、目前で繰り広げられた“官財癒着”に我慢ができなかったのか、同僚たちが止めるのも聞かず、7等出仕の職を辞した。それから約10年後の明治25(1892)年10月、「鹿児島 村橋久成」という名の雲水が路上で行き倒れ、仮埋葬されたという死亡広告が神戸の新聞に掲載された。


1976年から3年間にわたって、「国鉄北海道文学(現・鉄道林)」に連載した小説「残響」を1982年に単行本として自費出版、「北海道新聞文学賞」を受賞。翌年には北海道新聞社から刊行。1996年、サッポロビールによって復刻され、北海道出版企画センターと文化ジャーナル鹿児島社より発売された。